修行時代
私の実家は、4代続く地元では老舗の理容店。私は、組合役員の祖父の勧める、地元では有名な理髪店に住み込みで、修業に入ることとなった。このお店の店主は、親子ほど歳が離れた師匠だった。うわさ通り、とても厳しく実直な方だった。刃物は自分で研ぐ。刃物が切れなければいい仕事は出来ない。師匠の口癖だった。
切れるようになるまで、研ぎ続けて、深夜になることも珍しくなかった。刃物の研ぎはとても繊細だ。気持ちが焦っていると、いい切れ味が出ない。早く研いで、早く寝ようと思えば思うほど、刃がつかない。結局気持ちの動揺が、時間ばかりを長くする。若かった私たちに「自分の身なりをカッコつけている時間があるなら、ハサミを持って練習しろ!」とよく気合をかけられたものだ。
「どんなお客様にも、自分の持てる力の100%を、常に出しきる気持ちで接しなさい。」
「決して、楽をしようと思うな。そこで、すべての成長は止まり、全ては低下する」
という言葉が師匠の口癖だった。このお店で私は6年強お世話になった。
東京時代
憧れだった、東京のサロンの経営をこの目で見たくて、師匠の紹介で、上京し、東京の理容サロンで働くようになった。東京では、人口も多く、常にお店は、お客様であふれていた。田舎時代によく読んでいた、業界雑誌に載っていた、有名な講師のお店を見学に、麻布、原宿、渋谷、横浜などの有名店に休みの度に足を運んだ。
また、夜間講習が、各講師のお店のスタジオで行われることが多く、東京にいると、電車で15分、30分程度で行くことができる。田舎にいると、雲の上の人と感じていた講師の講習に出席することができる。こんなことは、今しかできないと、夜間講習のあるときは、仕事が終わってから出かける日々を送った。帰りはいつも最終電車だった。
美容室に就職
上京後しばらく過ごした頃、今度は、女性の長い髪のバリエーションの技術の豊富さに魅せられ、美容の講習会に出るようになった。その頃、女性の髪型に興味を持ち、美容室を友人に紹介して頂き、美容室で働くようになった。ここでは、すべてが新鮮だった。長い髪を、シャンプーし、カットをしてブローする。このあたり前の工程が、楽しくて仕方がなかった。
この美容室では試験制度で、シャンプーから始まってカット、パーマ、カラー、ブローと、試験管がいて、毎週受けたい試験を申請し、そこで合格をもらえると、お店デビューが出来るのだった。私は来る日も来る日も仕事が終わった夜練習し、シャンプーからパーマカットまで、すべてをクリアーし、お客様に接する機会をいただけた。そうなると毎日がより楽しくなっていた。
美容室での大きな学び
「美容室では、自分のおしゃれも重要なので、服装や、アクセサリーは、常に気を使うように!」と経営者から言われた。休日には、同僚と一緒に、ブランド物を購入し、身にまとうように私自身も変化して行った。
また、美容室では、理容室と違い、女性は、美容室に滞在している時間を、大いに楽しんでいることを学んだ。理容室の場合、そこに通う男性客の多くは、髪をカットしている間に、こっくりこっくりとうたた寝を気持ちよさそうにする方が多かった。施術中はあまり喋らず、自分の時間を楽しんでいる常連さんも多かった。もちろんお話好きの方もいらっしゃるが、多くはない。
しかし、女性の場合は、スタッフと会話を楽しんでいる常連さんが多い。時間の有効活用の仕方が、「男女こうも違うのなのか」とつくづく勉強になった。
技術も、男性は、「いつもと同じにしてほしい」という要望が多いのに対して、女性は「今日はどうしようかしら?何か、私に合う良いスタイルはないかしら?」というように、プロのアドバイスを、求めて来られる方が多いのも、大きな特徴だ。
美容室と理容室の大きな違いを知る
同じ髪のスタイルを整えるという業種でも、ある意味、全く違う観点で来店していると思え勉強になった。そこを考えると、「営業の方針・考え方・集客・サービス等々も、理容室と美容室は、似通った業種に見えるが、実は、大きく違うのではないか?」と気がついた。
「単にカット・パーマを上手に施術するという技術の上手さではなく、気持ちも含めたトータルで、何を求め、何に感動するのか?」ということが重要と感じ始めていた。その頃、いよいよ田舎の理容室に帰る日が近づいていた。毎日が楽しくても、このまま東京にいるわけには行かなかった。
帰郷、実家の理容室を継ぐ
そんな充実していた東京時代から、長野の実家に帰って来た。するとどうだろろう、そこには、毎日閑散とした実家のお店があった。東京にあの忙しい毎日から、タイムスリップしたようだった。まさに、田舎の3ちゃん床屋だった。毎日、農家のおじいちゃんばかりが来店していた。当然だった、親父とお袋のお客様ばかりなのだから。私のお客は皆無だった。
田舎の集客
さてどうする。給料もないし自分のお客様もいない毎日
まずは、学生時代の、同級生の名簿を片っ端から宛名書きして、自分が実家の理容室に帰って来たことを、知らせるハガキを出すことからはじめた。ハガキを見た同級生がポツリポツリと、来店頂くようになってきた。その同級生がリピートを始めたころ、今度はその同級生の知り合いや同僚を紹介していただくように働きかけた。
徐々にだが、口コミで、知り合いの知り合いの輪が広がってきた。それと同時に、チラシを近所に配り始めた。もちろんお金がなかったので、1枚1枚自分で刷った、手作り感満載のチラシだった。そんなことを繰り返していると、徐々に忙しい店になってきた。
第1回移転オープンで初めてのスタッフを雇用
このころ、私の実家の理容室は、裏通りにあった。もっと目立つ場所に移りたいと考え始め、表通りに店舗を借りて、移転オープンする決断をした。実家の今の店があるにもかかわらず、あえて、家賃を払い別の場所で営業することに、親は心配し反対もした。
そんな親を、なんとか説得し、実家に帰ってからの営業が3年過ぎた頃に、移転オープンとなった。表通りだけあって車の通りも激しく、目立つ場所だ。集客を強化するために、父親と2人で、毎朝4時起きで、手作りチラシを、配って歩く毎日が始まった。
この店も、いよいよ忙しくなり、家族3人では常にお客さまで満杯になり、初めてのスタッフを、雇入れた。それも同時に2人若い子を入店させた。この頃、この店舗での売り上げは、実家の店舗の2倍~3倍増となっていた。
第2回移転オープン
日に日に忙しくなり、この場所で5年が経った頃、「この界隈でもっといい場所に移りたい、そうすればもっとお客様に認知され、もっと忙しくなるはずだ」、それとともに、借家ではなく、自分の土地と自分の店が欲しくなった。そんなことを考える日々が、はじまった。それから、1年がたち計画通り、この界隈では、最も立地の良い場所に、土地を確保することが出来、そこに人生最大の借金をして、念願の新築の自分の店を建てることが出来た。まさに「一国一城の主」になった瞬間だった。二度目の移転オープンだ。自分が描いていたこの地での営業予想は的中し、移転して1年後、更に移転前の店の売り上げを倍増させることが出来た。
若いスタッフも4人になり、更に高単価を目指す
スタッフも、もう2人雇入れ、4人の若者と家族3人の総勢7人で、忙しいお店を回していた。高級店を目指し、休みの度に、スタッフを連れて講習会に入り浸り。技術競技大会にスタッフ共々、出場し、毎晩遅くまで練習を重ねて、長野県でも上位に入るようになった。
接客の講習会に出たり、様々なことをして、料金体系も見なおして、ライバルサロンより高い金額に改定した。それでも、土日は、昼ごはんも食べられないほど、忙しくなっていた。毎日が、充実した日々を送っていた。スタッフとともに働ける、この仕事が楽しくて仕方がなかった。嬉しいことに、地域1番店と噂されるようになったのはこの頃からだ。ありがたいことに、良いスタッフに恵まれ、家族と周りの協力もあり、すべてが順調そのものだった。
第3回目は、美容室オープン
このころ、私はかねてから、東京時代に経験した美容室が忘れられずに、何とか美容室もオープン出来ないかと考えるようになった。理容室で自信をつけた私は、美容室も、同じように繁盛させることができると信じてやまなかった。美容室はおしゃれな建物と、オシャレな広告チラシ、フリーペーパーの掲載で、理容室以上に集客できるだろうと考えていた。そうと決まれば、一刻も早く、サロンをオープンさせたくなっていた。
いよいよ、2度めの理容室移転オープンから6年経った頃、隣の土地に、美容室をオープンさせた。